そのきもちはわたしの軸なのだ
わたしはオタクで、いろんなアニメやソーシャルゲームが好きなのだが、守備範囲はかぎりなくせまい。
オタクっていうとどんなアニメも見てあらゆるゲームをやってそうに思えるのかもしれないんだけど、そんなことはなくって、わたしの場合、めちゃくちゃ好き嫌いがはっきりしている。
似たようなゲームでも「これは好き、あれは大嫌い」がわかれていて、結構めんどくさいタイプなのだが、オタク仲間と会話していると、「これが好きならあれも好きだよね?」と先入観で話題をふられることが多い。でも、それは私がタイトルすら聞くのも我慢ならないぐらい苦手な作品だったりもして、どうしたものかなぁ、と考える。
(なにがシンドイって、相手がそれを好きだった場合、結構きまずいから、軽率に「苦手で…」ということもできないし、かといってやんわり「あんまり知らない…」ぐらいだと「教えるよ!」と食いつかれてしまって逃げ道をうしなうことも多々あること…)
わたしは「好き」がすくないけれど、好きな作品のことはとことん愛している。
その作品がお金がかかるから、いっぱいお金が稼げる仕事に転職しようと考えてるし、たぶんその作品が好きだから婚期がおくれてるんだと思うけど、それでもかまわない。
もちろん好きなものがいっぱいあるのはしあわせなことだと思うけど、好きなものをいっぱい愛でることだってしあわせだ。
興味がない/好きじゃない/にがてな作品については、誰かがわたしのぶんまでめいっぱい愛してくれたらいい。わたしまで好きになる必要はない、と、思う。
それに、なにかのことをいっしょうけんめい愛している姿は、みていて「いいな」と感じるのだ。
わたしがきらいな作品を楽しんでいるからといって、きらいにはならない。むしろ、いいなと思う。作品そのものの話をされるより、しあわせそうにたのしんでいるほうが、ずっといい。
それはじっさい作品の人気にもおおきく影響しているのでは、と、思う。
わたしがずっと好きだったアニメはながらく人気がなかったのだけど、コアなファンががっつりと縁の下で支えてきた。ファンたちは人気がないことをときに自虐しながらも、それでもそこには「愛」があった。そうして暮らしていたら、いつのまにか人が増えて、ちかごろではグッズが即完売の人気アニメになった。
だいすきだったものが、人気が出て、うれしい。
それはもちろん作品がすばらしいのもあるけれど、「みんながたのしそうにしていたから」という風土の影響もあったんじゃないか、と思う。
わたし自身、このアニメおもしろかったな、と感じて好感をもっていたものを、ファンのマナーの悪さで失望したことは、何度もある。
だから、いざ人気が出たときにちゃんとそれを増幅させられるうつわで構えていられて、ほんとうによかったな、と思うのだ。ただ、それはもちろんわたしの成果とかじゃない。周囲のおともだちとか、まったく顔を合わせたことのない同志とか、いろんなひとたちが小さく積み重ねていったものだから、むしろわたしも恩恵にあずかっているほうかもしれない。
人気が出たのはうれしいけれど、そうしてちいさな世界でおたがいを慮って生きられた時期がおわり、この波を乗り越えてゆけるのか、不安になる。
いつだって、そのアニメはすばらしいのだ。
あとはファンがその風土を支えられるか、どうかなのだ。
母数が増えれば変な人がまぎれる可能性もふえていくし、ブームが去ったあとの世界はみすぼらしい。発展したデパートがそのままの姿をつづけられるのか、あるいは朽ちて広大な廃墟と化すのか、それは紙一重だと、わたしは思っている。
だから初心忘れず、よけいなことは考えず、ただ「好き」なものを好きでいよう。
めいっぱい好きなものをちゃんとあいして、しあわせでいよう。
そんなことをあらためて思う、今日のこのごろ。