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ロンリーナイト

年齢イコール彼氏いない暦な腐女子のひとりごと

けものフレンズ

を、見ました。

 

一話だけはかなり早い段階で見ていたのですが、その後忙しさのあまりアニメにかける時間を取れませんでした。
というか、オタクだけどもともとアニメはそんなに好きじゃないんですよね…(アニメ見るぐらいなら原作やノベライズ版を読むタイプ)

 

疲れていると人が生きるだの、死ぬだの、そんな話って考えたくないんですよね。
中学のときとか“鋼の錬金術師”が流行っていましたけど、今もうあれを見返せるかといわれたら、結構キツイ…。
あと“デスノート”とか…いやどうだろう、あれは逆に理解しないままでも読めてしまう気もしますが。

で、話題の“けものフレンズ”。
こちらは、一話は脳味噌からっぽで見られることと、序盤から説明くさい話がまーったくなくて、いきなり冒険に出る!というところがすごく入りやすかったです。
ゲームのチュートリアルとかオープニングムービーを飛ばしたい人間に最適。
「わーい!」「たーのしー!」と語録ばりのことを考えながら和やかに、行き当たった困難にみんなで力を合わせて立ち向かい、乗り越えていく姿をぼんやり鑑賞できます。
NHKみたい」っていうのはほんとそのとおりだなって思って、なんだか小さいころに見た、たとえば劇場版ドラエもんであったりとか、劇場版クレヨンしんちゃんとか、そういうものにやや通ずるところがあるなあと思いました(みんなで力を合わせて!感が)

なんて考えていると、徐々に徐々に物語がシリアスめいていくのがまたいいところ。
序盤から一気に重たいと疲れてしまうのですが、「あれ?今の意味深だな…って思ったけど次の瞬間にはもうギャグしてるから、気にしなくていいのかな?」を何度も繰り返していくと、あまり重たさを感じないんですよね。
お風呂でもぬるめから徐々にあったかくしていくといいって言いますけれど、それに近いものがある。

まあ、この作品の場合は「考察班」の存在によってシリアスめいた部分があるのは周知のことでしたし、むしろそれが真であるか、という観点からも爆発的に人気を会得した気がするので、実は「徐々に」でもないんですけれど。
私も、シリアスさのところが気になって見始めたタイプの人間です。

 

そしてそのシリアスさ、怖いんだけれど、怖くないのもまたいいんですよね。

 

最新の11話、かなりの引きで終わっています。
めっちゃくっちゃ次週が気になって、あの子はいったいどうなってしまうの!?って状態。
下手したら「死ぬんじゃないか」という状況ですし、これが“Another”だったら死んでる。

だけど“けものフレンズ”の場合、まあ、死ぬことはないかなあ、という安心感があるのがすごく良い。

怖いし、続きが気になるし、あちらこちらに散見されるシリアスの破片や過去にあったアプリ版との繋がり、すっごく気になるし、想像してゾクッとするんですが、怖いわけじゃない。
この、怖いわけじゃないけど、世界観の広がりや練られたシナリオにゾクッと来るのが、なんかすごく快感です。


たまにはオタクみを出してみました。
そんな日曜日でした(もう月曜日ですが)


おのれの闇を語る

昨夜、闇を駄々漏れさせたブログを更新したので、ついでにおのれの闇について考えていた。
といいますか、「適応障害」や「ストレス」関係の本を読んでいたらば、そういった「育ってきた環境」なども大事だとあったので、色々思い返さざるを得なかった、というか。

 

親にとくべつ可愛がられなかった、という記憶はない。
今も仲良し家族だし、東京から引き上げて親と暮らしたい気持ちはいつまでも色あせない。
私が親ばなれできず、かなりファザコンをこじらせている一方、弟はかなりドライである。
LINEしても返事がないし、家族LINEでも唯一発言しない。
弟から電話の連絡を受けたことは、人生でただいちどだけだ。

そんな弟であるが、ちいさいころはすこぶる身体がよわかった。
しょっちゅう風邪を引くし、アトピーはすごいし、当時ちいさかった私にはなにやらよくわからないような病気をたくさんしていた。
いっぽうの私は健康きわまりない優良児であったので、弟が体調をくずすたび、母が弟につきっきりになるのは、まあ、そりゃそうだろうなあと思っていた。
祖母のところに預けられたことも、何度かある。
当時からひとみしりがちで、それが結構苦痛だった覚えはあるのだが、しかし祖母もやさしいひとで、孫が寂しくないよう、お散歩に連れ出して虹を見せてくれたり(この記憶、いまだに鮮明にある)、だいすきなセーラームーンのCDを買ってくれたり、色々してくれた。

そんなわけで、弟に母を取られたわけだが、寂しかったか、といわれると、いまいちピンと来ないのがしょうじきなところだ。
やはり私は寂しさとは無縁のこどもだったのかもしれない。



が、しかし。
同時に覚えているのは、自分はいつまでも指しゃぶりのクセが抜けなかったこと。
これ、自分でもず~~~っと忘れていたんだけれど、先日友達に「私ちいさいころ人の耳を触るクセが抜けなくてさ~!」と話したところ、「指しゃぶりのクセもなかった?耳触る子って、そういう傾向あるらしいよ」と言われ、そういえば…!!!となったのだ。

指しゃぶりって、なんとなく「寂しい子」がするイメージがあった。
ので、ググってみたら、やっぱりそういう傾向があるようだった。

私が指しゃぶりをしていたのは小学校の一年生ぐらいまでで、くわしい事情はあんまり覚えていないけれど、なんだか漠然と「学校」がふあんで、いやで、おうちに帰りたかった記憶がある。


家に帰りたかったぐらいなので、やっぱり家の中に不満や寂しさはなかったのかもしれない。
となると、学校がいやだったのだろうか。

 

そう考えると心当たりがある。

私は根っからのオタクなのだ。

 

わたしの同級生たちは、けっこうマセた子がおおくって、小学生ともなると「アニメなんてダサイ」という風潮だった。
なんなら幼稚園にしてすでに「セーラームーン(笑)」みたいな子がわんさかで、みんなディズニーとか、そういうアニメーションのほうが好きだった、気がする。

そんななか、私と来たら筋金入りのオタクなのである。
セーラームーンとか、当時でいえばセイントテールウエディングピーチ。女の子向けのアニメだけじゃなくて、弟が好きだったポケモンなども。
もう少し大きくなってくると、カードキャプターさくらミルモでぽん、とっとこハム太郎
このへんだけなら「女児向け」なんだけれど、私の場合は、そこに魔法陣グルグルまもって守護月天スレイヤーズのような作品もけっこう見ていて、大好きだった。


幼稚園の時代からすでに「アニメを見る=異端」な風潮のなか、そんな子がいたらどうなるかというと、すなわち迫害である。

 

とはいえ、表立った迫害…いわゆるイジメは受けなかった。
ただ、質問されるのである。
たとえば、女子のなかでもいちばんの権力者の子が、「私のこと好き?」と書いた手紙を授業中にまわしてくる。
ここで「嫌い」なんていえるわけもないので(正直なところをいえば「お前なんて知らん」といった気持ちだったが、もちろんそれもいえるはずがない)適当に「好きだよ」と返して送る。
すると、次の休み時間、権力者および取り巻きたちがこちらを見ながら聞こえよがしに「スキだって~」「無理しちゃって~」「すなおに嫌いって書けばいいのに!」とプークスクスしてくるわけである。

これは一例なのだが、こんなかんじで、「こちらに質問して、その回答がなんであれ小ばかにする」という動きが強かった。
これは私だけではなく、同じクラスの子であれば、いわゆる“陰キャラ”の子や、また強いグループに属している子でも時折裏切りを受けて、その被害に遭っていた。
(他のクラスではどうなっていたかは、私にはわからないが、少なくともわが三年四組はそうだった)

つまり私だけじゃないというのはわかっているのだが、思い返せばこの迫害が私のなかの「否定」として強くこびりついている。

なにをやっても笑われ、否定されてしまう、そんな気持ちはいまも強い。
はじめてアルバイトしたとき、みずから仕事を探して動くことが出来ず、居心地が悪くて震えていたことは、いまも覚えている。
あれは単なる人見知り、気が弱いだけで処理していたけれど、そうなった理由を根本的に紐解いていくと「なにをしても笑われる」という小学校時代のトラウマだったのかもしれない。

 

適応障害」について色々調べているうち漠然と気付き、そして今まで友達や先生、上司からも何度か指摘されていたのだが(そのときはピンと来なかったのだが)、どうも私は“自己評価”がかなり低いらしい。
なにか失敗したり、なにかうまくいかないこと
この自己評価の低さについても、このいじめというほどでもないけど漠然と陰湿な仕打ちによって出来たのかもしれない、と思う。
だって何しても一笑されていたら、そら自分のことを価値ある人間だとは思えなくなる。

素人考えだけど、ここで家族がもっと愛情深ければよかったのかもしれない。
やっぱりこの時期、弟は病気がちでいつも休んでいて、手のかかる子だった。
私が構って構ってとまとわりつくわけにもいかないし、なにより、学校でちょっとひどいことされたんだなんて恥ずかしくって言えるわけがない。
 
こういう一連が私をだめにしたのかな~、と、少し思う。

 

そして、書いていて思ったけれど、全部過去にしてしまえればいいのに、わたしはまだ、けっこう引きずっている。

だから、友達で元陽キャというか、はなやいだ学園生活を送っていそうな子を見ると、けっこう怯えてしまう。
友達で、そういう、学校の話になるまではなんでもなく付き合えていたのに、「元テニス部」とか言われてしまうと、エッ…と、驚いたのちに、とつぜん怯えがやってくる。
テニス部とか、バスケ部とか、そういう子は、私たちをゴミのような目で見てきた人種ではないか。
なにゆえオタクをしているのか。
オタクの子とはすべからく迫害の経験を受けて生きてきたと思っていた。
けれど、そうではないらしい。
それどころか、ふつうに生きてきた子もいるらしい。

環境の違い、といえばそれまでである。
私の場合は特にオタクを良しとしない同級生が多かっただけのことだと思う。
実際、いじめというほどのいじめは受けていないので、そこまで怯える理由もない。

なんだけれど、こういういじめとか、軽くばかにするような風潮って、やった側は忘れていたりするものだから、もしかして…とか思ってしまう。失礼なんだけれど。

 

これは被害妄想はなはだしい話だけれど、そうなるぐらいの被害を受けて育ってきたのだ。オタクといういきものは。

予断だけれど、私を迫害して生きていた野球部の男子をmixiで見かけたとき、「アニメ最高!」みたいなプロフィールをしていて、ほんとに、人のことオタクだといじめておいて今更なにを…!?と激しい怒りに打ち震えたのも覚えている。

 

やっぱり、こうやってかなり根に持っていて、いまだに「あのときのクラスメイト、全員殺す」ぐらいの強い感情を覚えることもあるので、このあたりの学園生活がいまのコンプレックスというか、ナチュラルに自分を卑下して生きている理由なのかもしれない、と思った。

 

どうでもいいんだけれど、ウワサによればこのごろの若い子はボカロとかラブライブの流行でオタクであってもそんなに迫害はされない、という話をきいて、喜ばしいことだなあと思った。
それでもやっぱりあまり気の小さい、暗いタイプの子はどうしてもこういった被害に遭いがちなんだろうけれど。

まあ、これをバネにする、ぐらいの気持ちで生きていくしかないのだろうなあ、と思うこのごろであった。

ブログ村

 

かっとなったので、 にほんブログ村 適応障害 こんなリンクを増やしてみた。

 

つまり参加カテゴリを増やしたのだ。
ただ、前にも書いたけれど、「基本言いたいことを言うだけ。でも誰も見てなかったら寂しいなあ」というだけのブログなので、これが正解なのかといわれるとなかなか困る。

そもそも正解とはなんぞや、という話でもあるのだが。

 

 

あんまりこう、ブログ村とかにおおっぴらに登録したい内容でもないのだけれど、ひとりは寂しいので、こっそり居させてもらおうと思います。
しょうじき、人のブログをあまり読むわけでもないので(読んだが最後、自分も触発されてああだこうだ書きたくなって、日に三度は更新するはめになる)このカテゴリも合っているのかわからないのですが、まあ、なんでもいいかなあと…。

 

でもあまりに場違いそうならそっと抜けます…。

先のブログで「適応障害」を出したのと、そしていま適応障害に関する書籍を読んでいて、そういう意欲が高まったので、うっかり勢いで登録してしまったのです…。

 

とりとめのない自分語り

 

風邪を引いた。
今年三度目ぐらい。
確かに体力がなくてひ弱ではあるんだけれど、病気というのはあんまりしないほうだったので、こんなにワンシーズンで風邪ばかり引くというのはさすがにはじめてのことだ。

昨日、会社を休んだところ、あまりに休みがちなせいか、「体調管理をしっかりするように」とチクリと言われた。
いやまったくもってその通りであり、なんの反論のしようもないのだが、自分を大切にするだけの気力を損なわせたのはどっちやねん…というガッカリのほうを多く感じてしまった。
それは罪のなすりつけであり、八つ当たりであり、結局は全部自分が悪いんだろう…と思うのだけれど。
なんだかその一言が本格的なトリガーになったかのように、このごろずっと気が重たい。

しんどくてしんどくて会社に行きたくなくて。
でも、あまりに休みがちなので行くしかなくて。

何がイヤなのかもあんまり、よく、わからなくて。


さまざまな事情があって来年ぐらいまではここに居よう、4年間そうやって耐えてきたんだからあと1年ぐらいいける、それで耐えながら次へ向けて準備しよう、と思っていた。
けれど、こうなってしまうともうダメかもなあと感じる。


話は変わるけれど。
吐き出したいので、書く。

数年前にいちど、あまりに苦しいので精神科へ行ったことがある。

診察結果は「適応障害」だった。


そのときの私は、もう「うつ」って言ってもらって、それを盾に休職したいな~ぐらいの甘い気持ちだったので、その結果が不服だったのを覚えている。
今もうすこしだけ勉強して、べつにうつだったからって即座に休職ができるわけじゃないのも、そもそも「うつな気分」ぐらいなら「うつ病」とイコールではないことも学んだ。

そして昨夜、眠れぬ夜、あれこれ、いろんなことを調べて、私は改めて「適応障害」だな、と感じた。


またすこし脱線して自分語りをすると。
中学三年生のころ、不登校になったことがある。

理由は、ひとが聞いたら笑うものだと思う。
だから私は、親にも教師にも友達にもほんとうの理由はいちども言ったことがない。


白状すると、“受験”がイヤだった。
もっと細かくいえば、学校全体にはびこる“受験モード”がイヤだった。


私は、幼稚園や小学校でお受験があるような都心ではなく、みんなでなかよく並んで中学校まで進学する田舎で生きてきた。
けれど、高校からいきなり制度が「受験」になったのだ。
いや、いきなりじゃない、「受験」というものがあることぐらい小学校のころからわかってはいたんだけれど、私からみればいきなりだった。

まず、私はとにかく勉強が嫌いで、頭の悪いこどもだった。
だから、おなじように勉強が苦手なともだちといつもつるんでいた。
テストでは一夜漬けでなんとか平均点ぐらいをマークして、イヤなことからはほどほどに回避して生きてきた。
ぼやぼや部活して、ぼやぼや遊んで、ぼやぼや漫画読んで、それだけだったし、それだけで生きていたかった。

けれど、三年生の夏休みごろ、周囲の風潮はいきなり“受験モード”に突入した。

すると、今までおなじように勉強が嫌いで、あまり勉強していなかった友達たちでさえいっせいに勉強をはじめたではないか。
親や教師も当然のように塾や夏期講習をすすめてくる。
しかし、それが私には理解不能だった。
私はぼやぼや生きていたいだけなのに、理由なく勉強する意味がわからなかった。

今思えば「きちんとした高校に進学し、ひいては大学に進学し、そうしないといい会社に入れなくて苦労するから」だ。
そもそも、勉強するのってごく当たり前のことらしい。
私はそれがいまも不思議でしょうがない(理屈はわかるけど納得できない)のだけれど、とにかくそういうものである。


今でも勉強する意味をうまく理解できないぐらいなんだから、中学三年生の私は納得できるわけもなかった。
理解できなくて、勉強したくなくて、逃げ出したあれも、いま思えば「適応障害」だったのだろうな、と思う。

 

結局勉強から逃げ出して、いまや九九すらうまくいえない私だが、それでも一応正社員として就職し、東京でひとり暮らしている。


それは「成功」だと思う。
確かに彼氏はいないし、部屋汚いし、賃金少ないけど、「勉強できない元不登校」がここまでマトモになったのなら、たいしたもんだと思ってほしい。

けれど、いままた「適応障害」を発症させている。


そして、この状態が「成功」だからこそ、私はいま、逃げられないのかもしれない。

あのときは、逃げてもどうにでもなった。
でも中学生の、15歳のときの私とはもう違う。
あのときは思春期まっさかりで、人生選び放題だったけど、いま、25歳の私が職を失えば、「25歳処女ニート(ついでにソシャカス)」という地獄の肩書きの完成である。

つまりプライドを「まともな社会人」という肩書きだけで支えている状態に近い。


けれど、それを捨ててしまいたい、捨ててもいい、捨てさせてくれ!と懇願したい状況であるのも確かだ。

 


私のダメだなあと思うところは、こういうことを相談する相手が居ないところ。
いや、頼ったらみんな話を聞いてくれると思う。
もしかしたら、私に甘えてほしいと思っている友達も居てくれるかもしれない。
だけど、私はそれが苦痛で、いつだってプライドが高くて、澄ました顔でひとり立っていないとどうしようもなく、しんどい。

 


そんな自分語りでした。
すこしなにかがつかめた気はする。


掴むだけ掴んで満足して、また妥協と現実逃避の日々になってしまわないようにしたい。

 

三日坊主と騒音問題

 

いけない。
三日坊主です。
でも、まだ、意欲はあります。

 

このごろは、なんというのでしょうか、とても忙しいです。

 

でも実際に「やらなきゃいけないこと」ってほんとうにそんなに多くはなくて。
だからさっさと取り掛かってさっさと終わらせてしまえばいいし、世のじょうずに生きているひとてみんなそうしているんだと思います。

だけど私は、「やらなきゃいけないこと」をやらなきゃなあ、ああ、でもやりたくないなあ、ってことばかりぐるぐる考えて、ぐるぐる時間を浪費して、「やらなきゃいけないこと」がまるきり終わっていない、つまり「やることがある」ので「忙しい」という状態を延々と引きずっております。

 

アッすごい 文字にするとヤバさがわかる!

 

「やらなきゃいけないこと」に手をかけてみると思いがけずスルスル終わるんですけれどね。
そこに辿り着くまでの思考が長いというか、まどろっこしいというか、25歳にもなってほんとうに間抜けでイヤになります。
まあ、それで損しようが、べつに私の人生だから私がただただ残念なだけっていうのが、救いでもありますけれど…。

 

でも問題もありまして、それは「アパートの契約更新」。
さっさと書類を出さねばならないのに、私と来たらすっかり遅れてしまっております…。
でも担当者さん怒ってないし!セーフセーフ!と思っていたらば、ここで…。

 

隣人の騒音問題。

 

アパートを更新する、と決めたときはすっかり静かな時期だったので忘れていたのですが…。
うちのアパートはめちゃくちゃボロくて、隣の部屋の小声の会話も全部聞こえてきます。
内容まではわからなくても、ぼそぼそ喋っているのが筒抜け。
寝息まで聞こえてきます。

そんなアパートで、普段はお互いに気遣いあって生活しているのですが。
どうも隣人のかたは大学生?のようで、春休み・夏休み・冬休みの時期になると、急に大騒ぎがはじまるのです。

いまもおそらく春休みなんですかね。
彼女を連れ込み、昼間はドタドタぎゃあぎゃあ(これは昼間なので注意のしようもなくて困る)
夜も夜で、イチャイチャぎゃあぎゃあ。それが、朝の七時ぐらいまで続いて、こいつらいつ寝てるんだ!?って思うほど。
それをいちいち知っている私もいつ寝ているんだ?って話ですが、つまり寝ていないのです。
隣室がやかましすぎてとてもとても眠れない。

警察呼んだこともあったんですが、居留守されてノーダメージ(この様子も筒抜けで聴こえてきた…)
壁ドンをしたこともありますが効果はないし、逆に私の部屋が他の部屋の人から騒音でうるさいといわれる始末。

 

で、もう、アパートの管理会社に言うしかないわけですよ。
これまでもう十回は言ってきたけど、また言うしかない。
そのときに、「やべ。まだ更新の書類も出してないうちからケチだけつける客になってしまう…」と今更ちょっと焦るわけです。

あとねえ、「騒音」とは言っていますが、ぼそぼそ喋っている声まで筒抜けなのは「騒音」とも言いませんよね。
それをどこまで注意していいやらもわかりませんが、少なくともこっちにとって耳障りなのは確かなので…あと隣人、夜間のテレビのボリュームも何度注意してもらってもいやに大きい…。
私が神経質なのかな?とも思うのですが、反対側の隣の方もお友達を連れてきている様子はたびたびあり(これも音でわかってしまう)こちらにはウザイ!眠れない!と思ったことは一度もないので、やはり過ごし方の問題かなあと…。
(寝息が聞こえて来るのはこの反対側の隣の方なので、ここの壁だけ厚いというのも考えづらい…)

 

今、旅行の予定がいくつかあるせいで、引っ越すようなお金も時間もないのがほんとうに惜しい…とんだストレスです。
せめて更新の前に、春先になると隣室がやかましくなるということを思い出せていればなあ。
たぶんすこしすれば落ち着くと思うのですが、すこしするまでのあいだ私の睡眠時間はどうなる!?と感じざるを得ない。


そんな愚痴でした。

はあ。吐き出せてスッキリ。


 

やるべきことをやらんと、ソシャゲをしていた一日であった。


我よ、恥じて悔いるように。

 


とはいうものの。
このごろオタクのくせにオタクらしいことをひとつもせず、いろんなことをぐるぐる考えて落ち込んでいたりしたので、こんなに脳味噌からっぽで、どこかすっきりした日も久々だった。
目標を高く持たなければ精神って安定するんだなあ。
今時の若者がそこそこ主義になるのがわかる気がする。

 

 

あとあとあと、いちおうこのソシャゲ男性プレイヤー率のほうが高くて、男性にプレイしてるんです~って言うと話題が弾んだりするので、っていうかこのゲームきっかけで男性とLINE交換したりしているので、そんな、まちがったことをしているわけでは…ない、と思いたい。


承認欲求

完全なる閉鎖的なところでだって、いくらでも思いは綴れる。
というか日記とかって大概そうなわけだ。


このブログも特に誰かに見てほしいものでもなく、むしろ知り合いには絶対に見つかってほしくない存在。

SNSではたくさんの知り合いが居て、思っていることを書きづらいこともあって、だから解説したのだ。


なのに、いざやりはじめてアクセス数が0のままだと、それはそれでちょっと…となる。
知り合いには見られたくない。
けれど、赤の他人の誰かのところには、ほんのちょこっとだけ届いていてほしい。

ワガママ極まりない欲求だ。


けれど、私がSNS中毒だったりして、一向に自分の時間を作れず、気付いたら四六時中ツイッター見ちゃったりしているの、絶対そういうところなんだと思う。
承認欲求というやつか。

こういうものが“たったひとり”の恋人を見つけられたら埋まったりするんだろうか。
それとも、私みたいな自己顕示欲がエベレストぐらい高い人間は、永久にこうした間抜けな発信を続けるのだろうか。
目立つほどの勇気はないから、延々とこじんまりして。
けれど、こじんまりではどこか満たされないものを抱えたままで。

 

しかし、まあ、ツイッターなんかでは断じて言わないどうっでもいい長文をこうして吐き出せる場が出来て、すこしメンタルは安定したような気がします。

女性脳なのかな。
聞いてくれなくてもいいけど、ただただ喋りたい日がすごく多くて。
ロンリー一人暮らしが長いせいかもしれん。