にほんブログ村 寂しい一人暮らし | にほんブログ村 OL日記ブログ | にほんブログ村 適応障害

ロンリーナイト

彼氏と金がほしい26歳喪女の独り言です

反省→勉強→気分転換

 我が自戒は川のようだ。
 海ほど深くはない。浅い。その上ひじょうに長く延々ちょろちょろと流れ続けているし、時折雨(ミス)を起こすとたちまちに氾濫を起こす。厄介なんてものではない。

 私はどうしてこんなにダメなんだろう、生きている価値はあるのか、この先の将来ひとりぼっちで生きていることがほとんど確定しているが孤独に弱くすぐうちひしがれ、そのうえ仕事もダメになっているだなんて、お先真っ暗にほかならない。おお神よ。もうすこし強めの心臓で生を与えてほしかった。しかし今更強靭なハートは手に入らない。
 こうした自戒を、私はこの四ヶ月ほどずっと繰り返している。
 それは精神的なつらさが限界に達し、会社にいけなくなったその日からはじまったもので、不愉快な音をとめどなく奏でる壊れたオルゴールかのごとく、どこにいて、なにをしていても、決まって私をさいなみ続けていた。

 気分転換に楽しいことをしよう、と思ってもダメだった。

 私はこんなに楽しいことを甘受していい人間ではない、そんな気持ちが先行する。

 また、これは私のプライドがあまりに高く、他人より自分がすぐれていると感じられなければ満足できないちっぽけなマウント感によるものだけれど、「周囲の友人より私は劣っている」と感じると、もうダメだった。友達のことは信用していて、どれほどいい人かよくわかっている。そんな人たちを敵視し、あわよくば上から見下げたいなどと思う自分の無意識にもショックを受けた。

 思えば私はもともと漫画「アオイホノオ」が大好きで、あの“おのれ庵野”の気持ちに共感していたから、それは必然の心理だったのかもしれない。くやしいのだ。例えば漫画とかアニメとか、私はそれを作る仕事をしているわけでもなんでもないのに、完璧な作品を見るとくやしさで打ちのめされる。どうしてそれをつくったのが私じゃないんだろうと本気で思う。それがどれほど見当違いで恥ずべき思想なのかというのは重々承知の上、己としても「敵視したところでなにになる」とあきれ返るほどだが、それでも無意識のうち、咄嗟に思ってしまうのだ。悔しい、と。

 

 その悔しさをバネにしてなにかに邁進出来たらまだ良いのだが、なにせ私は「社会生活」を挫折したところだった。

 

 ぐちゃぐちゃになったプライドが足元に無残に散らばったのを眺めつつ、どうしてこんなことに、と自問するのにせいいっぱい。

 自答は簡単だ。私に力がないから、それだけである。

 はじめはそれを会社の問題だと思っていたのだが、会社の問題だったところでそれからひたすら目を逸らし続け、自分ひとりが我慢をすればいいとタカをくくっていた自分が悪いと、私は思う。がんじがらめになる前に逃げ出してしまえばよかったのだ。きっと、出来なかっただろうけれど。

 きっと出来なかっただろうから、私はその時間を反省こそすれど後悔はしていない。26歳のうちにぶち当たっておけて良かった、ぐらいに思うことにした。若い時間を無駄にしたという気持ちは唇を食いしばりすぎて血でも流さんばかりに悔しいが、しかし血が流れたところで我が20代前半の人生は戻ってこないのだ。

 

 どうせなら前を向きたい。
 というか、前を向くべきである。

 

 この結論に達するまで、私は八月から延々と孤独で薄暗い思考の回路に閉じこもっていた。

 いまでもたまに閉じこもるのだけれど、ひとたび結論が出たので、早々に抜けることができる。答えを見つけた迷路は簡単だ。解き方がわかった方程式は、もはや脅威ではない。
 地獄のように長いあいだ延々と不音を奏でるオルゴールも、いつかはネジが止まる日が来るのだ。そんなことを、私は26歳にしてはじめて知った。遅いか早いかは知らぬ。早かった、と、私は思っておくことにする。

 

 出口は、わかった。
 しかし、出口の先にも道はある。

 さしあたって私はどこへゆけばいいのだろうか。

 今度はそれがわからず、私は迷路の出口でぽつんと立ちすくむことになった。

 

 それが、十二月に入ったくらいからずっと頭を苛ませる問題の種だった。迷路の出口を抜けたところで、その先には道があるだけなのだと、この年齢になってはじめて知った。

 だが、悩みを延々とループさせ、時に自戒を重ねていくなかで、ひとつわかったことがある。

 それは“勉強すると気がまぎれる”ということだ。

 今までの場合、不安や反省から逃れる際にはいつも“趣味”を利用していた。それは“快楽”といってもいい。
 アニメだったり、漫画だったり、アイドルだったり。つまりは現実逃避である。

 それではよくないとやっと気がついた私が選んだ選択肢、それこそが“勉強”である。

 勉強内容は、なんでもいい。

 戯れにマスターするつもりのない英語の教本を読む日もあれば、深い哲学書に触れる日もあり、経済や世情を学ぶ日があれば、己が働く分野について学びなおす日もある。
 すべては好奇心の赴くがまま、直感が指示するままだ。
 時間が雄大にあるわけじゃないから、いつも浅瀬をパチャパチャとして終わる。なにか身になっている実感はない。

 それでも、“勉強をした”という事実が私を強くする。

 ある種、漫画やアニメより手ひどい現実逃避なのかもしれなかった。
 だとしても、娯楽にただ触れているより、ずっと精神が安定した。私はきちんとやっている。会社に行けてないけど、英語を学んだ。友達にLINEを返す気力はないけど、経済を学んだ。意味なく生きているわけじゃない。あるいは勉強だって意味がないのかもしれないけど、それを言い出したら私が呼吸することも大概意味がない。

 そうやってある程度自分をなだめすかして、はじめてアニメや漫画といった快楽がきちんと“快楽”として身に入ってくる。

 ビールはくたくたに疲れているときが一番うまいのと似ている。ある程度の努力ナシに得る快楽は不安なのだ。身を削ってなにかを手に入れたい。怠惰で、めんどくさがりで、布団から出たくないし、働かずに10億ぐらい手に入れたいくせに、精神論だけご立派なのだ。だから、その精神をまずなだめすかしてあげなければならない。

 

 これも当面の間のごまかしでしかないとは思うのだが、今のところそうやって少し不安を誤魔化すことが出来ている。
 早いところ不安を打ち消すようなしっかりとした努力を重ね、不当に得たものではない、確かな、自分の手で掴み取った“快楽”がほしいものだ。それか宝くじで1000億ぐらい当たってほしい。それか謙虚に、困ってる知らないおばあちゃまを助けたらどこぞの財閥の方でお礼に100万ほどいただく…ぐらいでもいい。

 

 ただ、いまのところ宝くじは買ってもいないし、困っているおばあちゃまにアテもないし、迷路の出口から動いて前進するほどの決意も自信もないから、ひとまず反省→勉強→気分転換をワンセットにして繰り返すばかりだ。

 

 ああ、早くこのループからも抜け出したい!
 自戒だけのループよりは、ずっとよくなったとはいえ、ね。

 

 “勇気”さえありゃあすぐなんだろうが、そんなもの持ってる人間はこんなところで3000文字も書いて嘆いたりせず、いまごろ己を見つめなおすために旅にぐらい出ているはずだ。

そのきもちはわたしの軸なのだ

わたしはオタクで、いろんなアニメやソーシャルゲームが好きなのだが、守備範囲はかぎりなくせまい。
オタクっていうとどんなアニメも見てあらゆるゲームをやってそうに思えるのかもしれないんだけど、そんなことはなくって、わたしの場合、めちゃくちゃ好き嫌いがはっきりしている。
似たようなゲームでも「これは好き、あれは大嫌い」がわかれていて、結構めんどくさいタイプなのだが、オタク仲間と会話していると、「これが好きならあれも好きだよね?」と先入観で話題をふられることが多い。でも、それは私がタイトルすら聞くのも我慢ならないぐらい苦手な作品だったりもして、どうしたものかなぁ、と考える。
(なにがシンドイって、相手がそれを好きだった場合、結構きまずいから、軽率に「苦手で…」ということもできないし、かといってやんわり「あんまり知らない…」ぐらいだと「教えるよ!」と食いつかれてしまって逃げ道をうしなうことも多々あること…)

 

わたしは「好き」がすくないけれど、好きな作品のことはとことん愛している。

その作品がお金がかかるから、いっぱいお金が稼げる仕事に転職しようと考えてるし、たぶんその作品が好きだから婚期がおくれてるんだと思うけど、それでもかまわない。

もちろん好きなものがいっぱいあるのはしあわせなことだと思うけど、好きなものをいっぱい愛でることだってしあわせだ。

興味がない/好きじゃない/にがてな作品については、誰かがわたしのぶんまでめいっぱい愛してくれたらいい。わたしまで好きになる必要はない、と、思う。

 

それに、なにかのことをいっしょうけんめい愛している姿は、みていて「いいな」と感じるのだ。
わたしがきらいな作品を楽しんでいるからといって、きらいにはならない。むしろ、いいなと思う。作品そのものの話をされるより、しあわせそうにたのしんでいるほうが、ずっといい。

 

それはじっさい作品の人気にもおおきく影響しているのでは、と、思う。

わたしがずっと好きだったアニメはながらく人気がなかったのだけど、コアなファンががっつりと縁の下で支えてきた。ファンたちは人気がないことをときに自虐しながらも、それでもそこには「愛」があった。そうして暮らしていたら、いつのまにか人が増えて、ちかごろではグッズが即完売の人気アニメになった。

だいすきだったものが、人気が出て、うれしい。

それはもちろん作品がすばらしいのもあるけれど、「みんながたのしそうにしていたから」という風土の影響もあったんじゃないか、と思う。

わたし自身、このアニメおもしろかったな、と感じて好感をもっていたものを、ファンのマナーの悪さで失望したことは、何度もある。

だから、いざ人気が出たときにちゃんとそれを増幅させられるうつわで構えていられて、ほんとうによかったな、と思うのだ。ただ、それはもちろんわたしの成果とかじゃない。周囲のおともだちとか、まったく顔を合わせたことのない同志とか、いろんなひとたちが小さく積み重ねていったものだから、むしろわたしも恩恵にあずかっているほうかもしれない。

 

人気が出たのはうれしいけれど、そうしてちいさな世界でおたがいを慮って生きられた時期がおわり、この波を乗り越えてゆけるのか、不安になる。

いつだって、そのアニメはすばらしいのだ。

あとはファンがその風土を支えられるか、どうかなのだ。

母数が増えれば変な人がまぎれる可能性もふえていくし、ブームが去ったあとの世界はみすぼらしい。発展したデパートがそのままの姿をつづけられるのか、あるいは朽ちて広大な廃墟と化すのか、それは紙一重だと、わたしは思っている。

 

だから初心忘れず、よけいなことは考えず、ただ「好き」なものを好きでいよう。

めいっぱい好きなものをちゃんとあいして、しあわせでいよう。

そんなことをあらためて思う、今日のこのごろ。

便秘の話

私はとかく心配性である。

 

自分の中ではなんとなく答えが見つかっていること、
そして自分はガンコなのでその意思を曲げるつもりはないことでも、
誰かの意見を仰いで自分の判断に誤りがないかというのを確認したくなる。
そして誰かの意見が自分と反対でも、意思は曲げない。
ただ、その意見を頭に入れて行動し、その人の意見が正しかったと感じられたら、掌を返す。


…というのはなんの話かっていうと、お薬の話です。


私は腸の病気をしたことにより、今後も便秘に気をつけて生きなければいけなくなったのですが。
ヨーグルト食べても、納豆食べても、キムチ食べても、バナナ食べても、張るときは張るんです。
小麦やめて、炭水化物やめて、お肉なんてもう長らく食べてない!
それでも張るのです。どうしたって。

 

そんなとき、病気の際にもらった整腸剤「ミヤBM」を飲むと結構便の出がよくなるんですね。
(汚い話ですいません…)
これはいい!続けようかな!と思ったんですが、問題がひとつ。

 

手持ちの在庫が少ない。

 

もともと病気の際にもらって、私は朝ごはんを食べないので、そのぶん飲まなかったものが余っていただけのミヤBM
そもそも常飲するほどの在庫はないのです。

ではまたもらいに行かなければ…と思ったとき、問題がひとつ。


かかった病院が大きな総合病院のため、ただ薬をもらいたいのにメチャクチャ待たされることは想像に難くないこと。
そして、そんなに忙しい病院の忙しいお医者様に「薬ちょうだい」とだけ言いに行くのはなんだか気が引けます。

 

で、調べてみたら、「ミヤBM」は「ミヤサリン」という名で市販されているとのこと。

 

やっぴー!

 

早速ポチろうかな…と思ったのですが、ここで心配性発動。

 

 

ほんとに常飲して大丈夫なのか?????


副作用はない、おなかに良い菌が入っているだけとはいえ、整腸剤は成長「剤」だぞ??????????

 

 

出来れば主治医に「大丈夫ですか?」と確認を取りたい。

 

しかし、相手は総合病院である。待たされるのである。しこたまめんどくさいのである。

そして冒頭に記載したように、仮に医者に「よくないです」と言われても私は意見を曲げないこと間違いなし。

「よくない」と言われたことを覚えつつ、それでも薬を飲み、ほんとにダメかどうか確かめるに決まっている。

 

いやそれなら病院行かなくてよくない????

 

それが、気持ちとしてはよくないんだな!!


つまり自分は「大丈夫だと思ってる」けど、「実際医者はどう思うのか」ってことは「情報として把握しておきたい」ということなのです。
良いか悪いかは関係ないのです。

 

なぜなら、いざ「薬を服用する」という段になると、そのどうでもいい小さな心配がメンタルを蝕んでしまうから。
「もしかしたら私はいまダメなことをしているのかもしれない」という不安から余計に症状が悪化したことが、これまで何度あったことか。
だから、「本当はダメだけど飲む」と「ダメかもしれないけど飲む」ということには雲泥の差があるのです。気持ちとして。

 

ダメだとわかっていれば本当にダメだったとき「ああはいダメだったね」だけど、ダメかもしれないときは「ダメなのかな?どうかな?」ということに神経を集中させてしまい、そこで気疲れして症状が悪化しちゃうんですよね…。

ちなみにダメだとわかっていてよかったときは「じゃ、使いすぎに注意だな」となります。


まとめるとこう。

・ほんとうに整腸剤を利用して大丈夫か知りたい
・気持ちとしてはOKと言われて清々しく使いたい
・常飲するつもりはない(不調なときのためお守りとして常備したい)
・ゆえにダメだと言われても、自分的には大丈夫だと信じている
・つまりダメだと言われても私はたぶん飲む
・それでも一応、大丈夫かどうか医師の見解を聞いておきたい
・結局のところ、医師の見解を踏まえて利用法を判断したい

 

メンドクセーな!!!!!!!!!!!!

 

普段はこのめんどくささに自分で呆れ、思考放棄し、病院の予約を取るところ。
しかし今回はもうちょっと根気よく考えてみることにしました。
根気発動キャンペーンです。

 

 

まずは、取れる対応のメリット・デメリットの比較。


A案「医師にダメだと仮定されたつもりで服用する」
メリット
・病院に行かなくて済む
デメリット
・ほんとうは大丈夫なんじゃないの?と疑ってしまう
・ダメなものを飲むというだけでそもそもしんどい

 

B案「病院行け」
メリット
・専門医の見解が聞ける
デメリット
・めんどくさい
・ダメだと言われたら対策がなくなる
・そもそも良いと言われる気がする

 

C案「医師にOKされたつもりで服用する」
メリット
・病院に行かなくて済む
デメリット
・ほんとうはダメなんじゃないの?と疑ってしまう

 


死ぬほどどうでもいいなマジで。

 


ただいちばんデメリットが少ないのは“C案「医師にOKされたつもりで服用する」”。
ダメだったらという思い込みを捨て、マジでダメだったらそのとき医者に相談すればいいだけですからね。
良かったらよかったで万々歳。

というわけで、とりあえずC案を採用するつもりで考えを進めました。


次に気になったことは、ミヤBMは、今1回2錠飲んでいる(ちなみに毎食後ではなく、お腹の張り・便秘の悪化が気になるときの食後だけ)。
だが、ミヤサリンは違うようだ、というところ。

www.amazon.co.jp

これは強ミヤサリンamazonページだけれど、見ると“1日9錠で270mg”との記載。
つまり、1回3錠の服用。
これは、ミヤBMより多いんじゃないか…?

 

確認してみると、ミヤBMは“1回1〜2錠(主成分として20〜40mg)”との記載(参考 くすりのしおり | 検索結果詳細)。
つまり、1錠20mgだろう。
強ミヤサリンは、270/9=30ということで、おそらく1錠30mg


ハァーー!
調べてよかった!
処方量ぜんぜんちゃうやんけ!!!!


こう比較してみると、強ミヤサリンはだいぶコスパよさそうなこともわかって、メリットがひとつ増加。
調べてみると90錠での販売があり、これを買って様子を見るというのがよさそうだろう。


というわけで、この「処方量の違い」によってひとしきり安心したというか、腑に落ちたので、とりあえずミヤサリンを試してみようかなと思います。

 

 

この結論に達するまで色々考え、比較検討した一連。
今までの自分なら煩わしくてやらなかっただろうから、記念に(?)ブログとして残すことにしました。

 

また、善し悪しの結果が出たら報告したいと思います。

 

とはいえ個人差が大きいだろうからどうだろうか…。
それにいまミヤBMを飲んで便の出が良かったのもそれだけかどうかわからないところもありますからね。
そもそも前述の通り、ヨーグルト納豆キムチ等々あれこれ試していますので、果たして本当にミヤBMの効果かもわからないのです。
それに、それ以外の食材が食べられないので、それは不便すぎると。ミヤBMで補えたらよいのですが。

 

ただ、それをいうと酪農菌のミヤBMより乳酸菌のビオフェルミンのほうが、どうも効果は高そう。

ヨーグルトや納豆代がバカにならない&他のものを食べられない悩みには、ビオフェルミンの常飲を試したほうがよさそう?
なんていう、他の悩みも残ります。

まあ、このへんは、当面はヨーグルト等で暮らしつつ不調な際のミヤBMで様子見してから考えたほうがいいかな、と。

 

 

あ、あと。それから、これは便についての余談ですが(汚い話ですよ)

ちなみにヨーグルトや納豆ばかりを食べ、小麦などを排除した生活では、毎日便は出ています。

病気前は三日に一度便が出ればいいほう、基本一週間に一度!みたいな暮らしだったので、これは大きな進歩です!!

ただ、病気してからお腹に少しでも便があるとものすごく痛むようになってしまって…(これは本当に痛んでいるのか、メンタル的なところから来る精神病なのかは不明)
それで「便通」そのものより「便の状態」を気にして、記録をつけています。
汚い話ですが、黒っぽかったり、固かったり、便が少ししか出ない日が数日続くと、やっぱお腹は痛いです。
でも、すっきり健康的な排便が出来ると、気持ち的にもラクになるもの。

 

このすっきり健康的な排便が続けばいいな、と思って、あれこれ頑張っているところなのです。


今までは食生活グッダグダで、ほんとパスタ!肉!肉!揚げ物!野菜嫌い!ファーストフードイエー!!みたいな暮らしで、いまでもそういった食生活は恋しいです。
舌は肉を、麺類を、ファーストフードを求めています。

ただ、腸内環境の改善を頑張ると翌日には効果が出たか否かハッキリわかるので、それが思ったよりも楽しい!

汚い話なので見る人を選びますが(笑)こうして長々話をしてしまうほど。
ゲーム感覚で健康になれるので、良いですね。頑張ります。

ちなみに運動も有効らしいんですが、これはちょっと、腸の病気のほうに悪影響を及ぼすこともあるみたいなので、まだ痛みが頻出するうちは控えております…。
歩くだけでメチャ痛むときがあるんですよ、これが。
でも、腸内環境の改善をこつこつ続けられたら、きっと運動も出来るようになるはず。
そのころには根性がついて、運動を続けられるメンタルが得られているかも…と期待しています。

 


話が長いな!
それだけ語りたかったのです、ハイ(笑)

 

“楽しい”を探す


日々だまって生きてると、人生ぞっとするほどつまらない。

しかし、だからといってアクティブに動ける精神的な気力も、そして肉体的な体力も、これっぽっちも残っていないのがこのごろの毎日である。

 

だからたぶん、ぼーっと「楽しい」を探してツイッターを見ちゃうんだろうなあ、とか。

あとソシャゲが好きなのもそうかもしれないですね、ガチャとか。

新たなものを発掘するだけの余力はないから、知っている範囲の世界で楽しいことを求めて、ぼーっとあれこれ見ちゃうのかなあと。

 

たしかにそれは楽しいんですけど、この五年(!)それしかしてなくて、だから手元になんにも残ってなくて、ただ浪費した時間だけが無限にある。

それ自体を悔やむことすら時間の無駄だから、それはしないんだけれど、じゃあ未来に向けてどうしようかな、って考えたとき、なにせ立ち止まっていた時間が長すぎて困ってしまう。

 

なにがしたいのか、

なにを楽しいと思うのか、

自分がどうなりたいのか、

考えるより先に動いてしまいたい!あー!!

 

しかし先述のとおり、体力がないのでありました。

物理的にね、ほんと、病気で一ヶ月近くベッド暮らしでしたので…それもまだ治ってなくて…むりに動いて、腸なんだけど、出血をしたっていう事例も多く見かけたので、なにせ全治まで黙っているしかない…のだけど、全治しないかもしれないらしく…うぅん…一生の付き合いになる病気なのだそう。

これを退治しないと正直なんともならん、と感じてしまう自分が居るのだけど、しかし、これにばかり意識を向けてしまっても気は滅入るだけ。

なんとか気張って、意識を外へ外へ、明るいほうへ、向けていきたいものです。

寄り道

寄り道、道草、遠回り、迂回、気を逸らす、心ここにあらず、なんでもいいのだけれど、そんなぼんやりとした状態がつづいている。

やりたいことがある。

ゆくゆくは今の仕事を辞めて、これ一本で食べていけたりしないかなぁと願うぐらいには「やりたいこと」だ。それを「これ一本で食べていくぞ」と断言できない自分の弱さが気になるところであるが、そんな現実的でいがいと夢を見ないのは美点であると思っておこう。せめて自分だけでも!


さて、そんな「やりたいこと」であるが、「やりたいこと」であるはずなのにうまく捗らないのだ。

 

己で選んだ趣味というか副業候補にもかかわらず、このていたらく。

まるきりの初心者というわけではなく、高校時代に趣味でやってきたことなので(たとえば絵とか、小説とか、ギターとか、ダーツとかビリヤードとか、そういうものだ)やり方をしらないというわけでもないのに、いざ本腰を入れて「これで生きていけるようになろう」と気合いをいれると、なんともまぁ、進まないこと、進まないこと。

気合いをいれるからだめなのだろうか。もっとフラットに、たのしく挑むべきなのだろうか。

すくなくとも「楽しく」はそうするべきだと思うのだが、いかんせん楽しくないのでどうもしがたい。

楽しくやれないのに職業にできるのかといわれるとひじょうに悩ましいところだが、しかし今の仕事はもっと楽しくはない。世の中を生きるのはむつかしい。

 

集中はだいじだ。

あたりまえのことだが、ほとほとそう思う。

もともと注意力散漫で、テスト前になると片付けをはじめるタイプの学生だったけれど、それでもどうしても必要な勉強というのはしていた。義務教育は興味がなかったし必要とも思えなかったので散々だったけれど、専門学校に入ってからの勉強は、自分でもびっくりするぐらい頑張った。なぜあんなに頑張れたのか、いまだによくわからないのだが、やはり「高い学費を払って入れてもらったからにはやり遂げねばならない」という意識が強かったのかもしれない。

そこにきて、現状の情けなさよ。

たしかにいまも病がつづいているし、そのうえでなおかつ仕事もしていて、いっぱいいっぱいであるのは事実だ。だが、それを打開すべく現状を変えようと願ったのは自分ではなかったのか。高い金を犠牲にしていないからだめなのか。否、犠牲になっているといえば、もうなっている。これが成し遂げられなければ時間を無駄に費やしたばかりで、別のところに注いでいればなんらかの収入になったかもしれない。それが得られない以上、ある意味金銭は犠牲である。

 

わかっている。

だが、寄り道はやめられない。

このブログのことなのだが。

 

かたくなな意思、集中力。一本の道をひたむきに邁進する力。

それは才能なのか努力なのか、意地なのかどうなのかわからないが、いずれにせよ今の私には著しく欠けているのだった。

 

お久しぶりです

存在は正確に覚えていたものの、なんとなく筆を取るのがおっくうでどうにもほったらかしにしていたのだけれど、いよいよもって自分の生産性のない日常が嫌になってきたので、リハビリがてら「ブログ」という形からはじめてみようと思うわけです。続く気がまったくしないのだけれど、ええい、そんなことを気にして一歩目が踏み出せるものか!

更新せずにいた二か月のあいだにはずいぶんといろいろありました。

鬱で休職したり鬱で休職したり鬱で休職したり、それで有休を使い果たしたあとに大病で入院して、有休がないからガチで給料が削られて終わったりだとか。来月の給与額を思うとあまりに憂鬱。

しかも鬱になるぐらいにただでさえ病んでいたところに病気でしたので、より不安が高まるというか。完治してないんですよ。ただいつまでも休んでられないからしぶしぶ復帰したところで病ですからね。地獄。


なぁんてことを永久に考えていたらいよいよ気が滅入って来てですね、それはそうに決まっている、だって無限にマイナスなことばかり考えているわけなので。いや、私にとっては正直もう「マイナス」でもないんですよ。ネガティブなことを考えるのって。ネガティブでもない。あるがままの事実について悩んでるって感覚なのです。

「給料が減るなぁ」とか「病気がなかなかよくならないなぁ」とか「会社に迷惑をかけてしまっているなぁ」とか、「そういう愚痴をSNSでこぼして友人たちにも嫌な思いをさせているなぁ」とか。事実なんですよ。それについて「辞めなければいけないんだけどやめらない、どうしよう」って常に思ってしまう。それを、いちいちネガティブだ~とかマイナス思考だ~とか言われても困るんですよ。だって、「困難があって弱っている」ということは現実だもの!

 

なぜいきなりそんなことを言うのかと言われますと、このごろ占いだとか開運だとかに少し興味を持ちまして、そういった本であったりブログであったりをよく読んでいたのですね。なにせ時間は無限にありますから。

そうしたなかでよく言われるんです。

 

「口にしたことが現実になるから、ポジティブなことを言う」

「人間は思っているほうに引っ張られるから、いいことを考える」

「心配性なのはいいことだから、気にしすぎない」

 

…これはあくまでざっくりとしたニュアンスであり、本当はもっと「ごもっとも!」と頷きたくなるような表現でしたが。

そう、それらの文章を読んだとき、たしかに「そのとおりだ!」と思ったんです。

そして自分もマイナスであったり、ネガティブなことだけを考えてはいけない、我慢しようと、そう考えて一週間ぐらい過ごしたのですね。なんですが。

あまりにクセづいているといいますか、先も言いましたが普通なんですよ。私のなかで。「悪いことを想定しておく」というのは。いってみれば「地震が来るから対策グッズを準備する」とか、「あした小テストがあるから予習しておく」とか、そういったことと同じ類なんですよ。「給料が入らないから悩んで悩んで節約を考える」とか、「病気が治らないから最悪会社を辞めることを想定しておく」とか、それを「マイナス」と言われたって、ぶっちゃけ困る!としか言えないんです。


ただ、そう思えるぐらいまで「マイナス」「ネガティブ」「後ろ向き」な自分を自覚し、開き直れたまでは良かったかなぁと思うのですが。

本当はもう少し楽しくハッピーなことを考えられるようになれれば最高なのでしょうが、正直にいえばそんな能天気な人間、そもそも私は好きじゃないし憧れないというどうしようもない事実も見えてきたので、卑屈で繊細でめんどくせえ人間ながらも、ほんのすこ~し人生楽しめに生きられたらなと思う次第です。はい。


というわけで、少しでも「自分頑張ったな」とか「よくやったぞ」ということをいちいち言葉にしていくところからスタートしたいと思います。

これまでは、「自分なんであのときああしなかった」という後悔ばっかり言葉にしてきましたからね。「土日ずっと寝てた…」とか「あ~今日もまた仕事捗らなかった~」とか「やらなきゃいけないことだったのに忘れてた」とか、そんなツイートばっかり。

それはせめて、いきなりゼロというのは難しいと学んだので、ちょっとずつね。ブログからもね。別の方向性からアプローチをキメていきたいなぁと。


さてそんなわけで「今日頑張ったこと」ですが。

少なくとも10時に起きました!えらい!

いや「遅いぞ」とお思いの方もいらっしゃるかと思うのですが、私にしては早いです。あといまも病をすこし引きずっているので、身体がしんどいのです。でも寝ずに起きました。バンザイ!

そしてお洗濯もしましたし、少しですが部屋のお掃除もしました。エライ!

 

あしたからは億劫きわまりない会社のスタートですが、この調子で自分を褒められるようなことをね、一日すこしでもいいからやっていけたらなと、思います。はい。

 

日常が腐敗している

このごろ、捨て損ねたゴミから腐ったにおいがたちこめており、部屋が地獄と化している。

ただでさえモノにあふれかえった汚部屋にもかかわらず、においまで臭かったら本当に生きてはゆけない。


ゴミをまとめることはしているんだけれど、ゴミの日を忘れてしまったり、そういう日にかぎってうっかり朝寝坊をしたりするので、どうもこうも、捨てることがままならない。
それが3週間ばかり続いたので、そら異臭もするわという話だ。
余談なんだけれど、ゴミ捨て場のすぐ目の前のお宅のおばあちゃんがそれはそれはおっかなくて、ゴミ捨てを細かに監視し、分別を間違えると怒鳴り込んでくる。
冤罪で一度めちゃくちゃ叱られたことがあって(わたしのゴミじゃないんだけどわたしのゴミだと思われた)、謝罪もなく、あれからゴミ捨てが恐怖なので、そういう「捨てに行きたくねえなあ」という気持ちも作用しているのかもしれない。

 

腐敗し、悪臭を放つのは実物のゴミばかりではない。

こうやってブログやら日記やらで吐き損ねた言葉のゴミみたいなのが脳味噌に次々蓄積され、どうもこうもすっきりしない日々を過ごしている。
しかし蓄積されたゴミのような言葉というのはあくまでゴミのような言葉でしかなく、それを発することではなんの薬にもならず、どちらかといえば毒に近いので、なんだか発散もためらわれる。

 

毒を抱えるばかり、それどころか増やすばかりの日々はそろそろやめたいのだが、今のところ逃げ出す算段もない。

生活もそうだ。

仕事、日々の暮らし、趣味。

ただもうすこし生きやすくしたいだけなんだけど、自分で色々蓋をしたことが腐りすぎていて、どうしようもこうしようもなにもない。

まずはその腐ったあれやこれやを埋葬なりしてしまわねばどうともならず、けれど、その方法がわからない。

私はどうやって、このイヤになってしまった仕事を、ガマンならない日々を、もっと充実させたい趣味を、供養すればいいのだろう。

わからない。

 

なんとなくだけど、小さい頃から、人間とはまっとうに社会人として働いて暮らさねばならないと思ってきた。

だから、たとえば「バンドマンになる」みたいな夢を追う人がまぶしくて、目を覆って、あまり応援せず、むしろどこか忌み嫌って、そうしてやり過ごしてきた。

でも、そういったきらきらしたものに蓋をして生きてきたけれど、本当はわたしはまっとうな社会人として暮らせるだけの器がなくて、まだ夢を追っていたほうがいくばくかの救いがあったのではないだろうかと思ってしまうようになった。

気付いたときにはもう蓋の中の夢は腐敗したあとなのだ。

私はどうしたらいいのだろう。まだ間に合うのだろうか。この腐敗を捨てて、あらたな夢を抱くべきなのだおるか。それとも、この地獄みたいな日々を続けるべきなのか。

 

どちらにせよ地獄のようにしんどいのは確かだなと気付いたので、ならばやりたいことをやるべきなのかもしれない。ううん。

 

しかし、それはあくまで夢物語であり、夢見たから、努力したからという単純な理屈で成功できるものではないと、私は痛いほどよく知っている。
つまりは失敗が怖いのか。成功できないと思っているのだろうか。

少し違うかも。

うーん、結局いまいくつか抱いている「理想」「夢」をかなえてもきっと不満はまた噴出し、理屈をこねて現状を拒否し、「やはりあのとき真っ当に社会人を続けていればよかった」と言い出す自分が見えるようだからかもしれない。わたしはそういうところがある。

だからこそ自分を信用せず、夢が見たいと訴える自分を無視し続けた結果、あえなく今も苦しんでいるわけで、結局考えるばかりで行動に移せないような人間はなにをしてもダメなんだと自らを持って証明しているに過ぎない。おいおいベイビー勘弁してくれよ。

 

しかし考えるのがクセづいてしまい、行動しながらも思考を止められず、結果足も止まってしまうところがあるので、どうしたら行動というのは出来るようになるのでしょうね。

なにかをおそれなければいいのだろうか。楽しい!って思えたらいいのだろうか。

それが出来ないようじゃやっぱり「夢を追う」のは向いていないんだろうか。

漫画家とか、そうだって言いますしね。休憩中でも休みでも漫画を描いちゃうような人じゃないとつとまらないって。頭で考えてしまって手が動かない段階で、ほんとうはもうダメなのかもしれない。

っていう諦めだけではやはり「現実」に向き直ったとき苦しくて、うーん。

 

こうしたクリエイティブな「夢」に邁進する身近な人物がいないので相談もしづらいのでより病むのだが、居たら居たで自分と比較し落ち込むだろうし、やはり考える前にやれよと自己嫌悪するに過ぎないだろうから、やはり、なんだ、やっぱり動けないあいだにモノは腐ってゆくのでしょうね。