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ロンリーナイト

彼氏と金がほしい26歳喪女の独り言です

反省→勉強→気分転換

 我が自戒は川のようだ。
 海ほど深くはない。浅い。その上ひじょうに長く延々ちょろちょろと流れ続けているし、時折雨(ミス)を起こすとたちまちに氾濫を起こす。厄介なんてものではない。

 私はどうしてこんなにダメなんだろう、生きている価値はあるのか、この先の将来ひとりぼっちで生きていることがほとんど確定しているが孤独に弱くすぐうちひしがれ、そのうえ仕事もダメになっているだなんて、お先真っ暗にほかならない。おお神よ。もうすこし強めの心臓で生を与えてほしかった。しかし今更強靭なハートは手に入らない。
 こうした自戒を、私はこの四ヶ月ほどずっと繰り返している。
 それは精神的なつらさが限界に達し、会社にいけなくなったその日からはじまったもので、不愉快な音をとめどなく奏でる壊れたオルゴールかのごとく、どこにいて、なにをしていても、決まって私をさいなみ続けていた。

 気分転換に楽しいことをしよう、と思ってもダメだった。

 私はこんなに楽しいことを甘受していい人間ではない、そんな気持ちが先行する。

 また、これは私のプライドがあまりに高く、他人より自分がすぐれていると感じられなければ満足できないちっぽけなマウント感によるものだけれど、「周囲の友人より私は劣っている」と感じると、もうダメだった。友達のことは信用していて、どれほどいい人かよくわかっている。そんな人たちを敵視し、あわよくば上から見下げたいなどと思う自分の無意識にもショックを受けた。

 思えば私はもともと漫画「アオイホノオ」が大好きで、あの“おのれ庵野”の気持ちに共感していたから、それは必然の心理だったのかもしれない。くやしいのだ。例えば漫画とかアニメとか、私はそれを作る仕事をしているわけでもなんでもないのに、完璧な作品を見るとくやしさで打ちのめされる。どうしてそれをつくったのが私じゃないんだろうと本気で思う。それがどれほど見当違いで恥ずべき思想なのかというのは重々承知の上、己としても「敵視したところでなにになる」とあきれ返るほどだが、それでも無意識のうち、咄嗟に思ってしまうのだ。悔しい、と。

 

 その悔しさをバネにしてなにかに邁進出来たらまだ良いのだが、なにせ私は「社会生活」を挫折したところだった。

 

 ぐちゃぐちゃになったプライドが足元に無残に散らばったのを眺めつつ、どうしてこんなことに、と自問するのにせいいっぱい。

 自答は簡単だ。私に力がないから、それだけである。

 はじめはそれを会社の問題だと思っていたのだが、会社の問題だったところでそれからひたすら目を逸らし続け、自分ひとりが我慢をすればいいとタカをくくっていた自分が悪いと、私は思う。がんじがらめになる前に逃げ出してしまえばよかったのだ。きっと、出来なかっただろうけれど。

 きっと出来なかっただろうから、私はその時間を反省こそすれど後悔はしていない。26歳のうちにぶち当たっておけて良かった、ぐらいに思うことにした。若い時間を無駄にしたという気持ちは唇を食いしばりすぎて血でも流さんばかりに悔しいが、しかし血が流れたところで我が20代前半の人生は戻ってこないのだ。

 

 どうせなら前を向きたい。
 というか、前を向くべきである。

 

 この結論に達するまで、私は八月から延々と孤独で薄暗い思考の回路に閉じこもっていた。

 いまでもたまに閉じこもるのだけれど、ひとたび結論が出たので、早々に抜けることができる。答えを見つけた迷路は簡単だ。解き方がわかった方程式は、もはや脅威ではない。
 地獄のように長いあいだ延々と不音を奏でるオルゴールも、いつかはネジが止まる日が来るのだ。そんなことを、私は26歳にしてはじめて知った。遅いか早いかは知らぬ。早かった、と、私は思っておくことにする。

 

 出口は、わかった。
 しかし、出口の先にも道はある。

 さしあたって私はどこへゆけばいいのだろうか。

 今度はそれがわからず、私は迷路の出口でぽつんと立ちすくむことになった。

 

 それが、十二月に入ったくらいからずっと頭を苛ませる問題の種だった。迷路の出口を抜けたところで、その先には道があるだけなのだと、この年齢になってはじめて知った。

 だが、悩みを延々とループさせ、時に自戒を重ねていくなかで、ひとつわかったことがある。

 それは“勉強すると気がまぎれる”ということだ。

 今までの場合、不安や反省から逃れる際にはいつも“趣味”を利用していた。それは“快楽”といってもいい。
 アニメだったり、漫画だったり、アイドルだったり。つまりは現実逃避である。

 それではよくないとやっと気がついた私が選んだ選択肢、それこそが“勉強”である。

 勉強内容は、なんでもいい。

 戯れにマスターするつもりのない英語の教本を読む日もあれば、深い哲学書に触れる日もあり、経済や世情を学ぶ日があれば、己が働く分野について学びなおす日もある。
 すべては好奇心の赴くがまま、直感が指示するままだ。
 時間が雄大にあるわけじゃないから、いつも浅瀬をパチャパチャとして終わる。なにか身になっている実感はない。

 それでも、“勉強をした”という事実が私を強くする。

 ある種、漫画やアニメより手ひどい現実逃避なのかもしれなかった。
 だとしても、娯楽にただ触れているより、ずっと精神が安定した。私はきちんとやっている。会社に行けてないけど、英語を学んだ。友達にLINEを返す気力はないけど、経済を学んだ。意味なく生きているわけじゃない。あるいは勉強だって意味がないのかもしれないけど、それを言い出したら私が呼吸することも大概意味がない。

 そうやってある程度自分をなだめすかして、はじめてアニメや漫画といった快楽がきちんと“快楽”として身に入ってくる。

 ビールはくたくたに疲れているときが一番うまいのと似ている。ある程度の努力ナシに得る快楽は不安なのだ。身を削ってなにかを手に入れたい。怠惰で、めんどくさがりで、布団から出たくないし、働かずに10億ぐらい手に入れたいくせに、精神論だけご立派なのだ。だから、その精神をまずなだめすかしてあげなければならない。

 

 これも当面の間のごまかしでしかないとは思うのだが、今のところそうやって少し不安を誤魔化すことが出来ている。
 早いところ不安を打ち消すようなしっかりとした努力を重ね、不当に得たものではない、確かな、自分の手で掴み取った“快楽”がほしいものだ。それか宝くじで1000億ぐらい当たってほしい。それか謙虚に、困ってる知らないおばあちゃまを助けたらどこぞの財閥の方でお礼に100万ほどいただく…ぐらいでもいい。

 

 ただ、いまのところ宝くじは買ってもいないし、困っているおばあちゃまにアテもないし、迷路の出口から動いて前進するほどの決意も自信もないから、ひとまず反省→勉強→気分転換をワンセットにして繰り返すばかりだ。

 

 ああ、早くこのループからも抜け出したい!
 自戒だけのループよりは、ずっとよくなったとはいえ、ね。

 

 “勇気”さえありゃあすぐなんだろうが、そんなもの持ってる人間はこんなところで3000文字も書いて嘆いたりせず、いまごろ己を見つめなおすために旅にぐらい出ているはずだ。